選挙を機会にソーシャルマーケティングについて考えてみます

季節外れのしかし超巨大台風と衆議院選挙がこの週末同時に過ぎて行った。巨大台風の首都圏直撃にも関わらず大きな被害がでなかったことは幸いであった。しかし、衆議院選挙に関してはいろいろと思うところが多い。むしろ災難といえばこちらではないだろうか。政治或いは選挙というオブジェクトをこうしたレトリックで語ることが完全に適切とは思わないが、私の専門であるマーケティング理論から少し考えてみた。

「ソーシャルマーケティング」は1971年に高名な学者であるコトラーによって提示された概念で、社会的に合意する必要がある理念やコンセプトを「社会的プロダクト」として定義し、マーケティングの4つのPのうちのプロダクト以外の3つ、すなわちプライス、プレイス、プロモーションを最適化して「社会的プロダクト」の普及浸透、すなわち公共的合意を確立するための技術と言うことができる。今回の衆議院選挙をソーシャルマーケティングの理論フレームで捉えるとするとほぼすべてのプレイヤーに「社会的プロダクト」の概念が欠落していたと言えるだろう。すなわち「理念」の欠落である。これが最大の問題であり、ある意味で日本の政治のあるいは日本という国の劣化なのだと思う。「板垣死すとも自由は死せず」その「自由」こそが大事なのである。

政治にとって理念の欠落は致命的である。昨今は企業理念の重要性が謳われることが多く、もちろん企業にとって重要ではあるが、その理念は企業が提供するプロダクトやサービスとして結実してこそ意味がある。つまりソーシャルマーケティング理論から考えると既存の政党も政治家も商品のないマーケティングを行っていると喩えられるだろう。今回の衆議院選挙の大義という解散の目的が消費税10%への増分の使い道だとするならば、議論すべき社会的プロダクトは消費税の公正でクリエイティブな使い方、あるいはそこからそもそも論としての社会福祉のあり方についてのクリエイティブな提案であるべきで、有権者はその巧拙をこそ評価できるのが望ましいはずである。しかし現実は改憲、独裁、格差、北朝鮮など論点はバラバラ。つまり目的であった「社会的プロダクト」の提示は本当の論点ではなかったということである。

真面目に考えれば安倍首相が提示した消費税増税分の使途、「幼児教育の無償化」やら「授業料の減免」などが「社会的プロダクト」としての品質が低いことはマーケティングに携わる方でなくてもわかるはずである。こんなものは消費税増税分の使途という「社会的プロダクト」としてみた場合、要は値引きのようなプロモーション弥縫策に過ぎず、ゴミのような提案である。こんな提案をしたら担当の広告代理店は即出入り禁止になるだろう。「お年寄りや子どもにも食べやすい辛すぎず甘すぎず野菜もたっぷりのカレー」を無償提供しましょう、みたいな話である。

いまの政治あるいは今回の選挙をソーシャルマーケティング理論で解き明かせば、プロダクト抜きでプロモーションの巧拙を問う、ある種の広告賞のようなものであり、ソーシャルマーケティングと呼べるものでもないと言えるだろう。別の言い方をすれば、候補者は商品ではなく、社会的プロダクトの製造ラインに携わっている人でしかないはずであり、その人の名前を連呼することではプロモーションにもならないはずだ。そんなプロダクト不在のキャンペーン合戦だけが展開され、そして巨大キャンペーンを運営する人的パワーと資金量のある与党がいつも勝利し、広告賞を掻っ攫っていくというわけである。今回プロモーション戦略を組み立てることができなかった立憲民主党のみがプロダクトすなわち「理念」に立ち戻るしか選択肢がなくなり、結果として受容されたのは興味深い。ソーシャルマーケティング理論から言及すれば、当然、政治の目的は「社会的プロダクト」の生産と普及にある。その観点からすると政党が誠実によい「社会的プロダクト」のメーカーになって頂くのが最善である。

ものづくり大国などの言葉が躍るが、本当に責任をもって「社会的プロダクト」づくりをして欲しいのは永田町と霞が関の人たちだと思う。うまいことをやった人ではなく、いいものをつくった人を本当に評価する国を私たちは創り出していくべきである。そのためにはまず力のある理念を生み育てることが重要なのである。

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